セミナーや勉強会に参加すると、モバイルパソコンで記録を取る人を目にします。記者会見会場でも、メディアの記者さんたちの多くは、モバイルパソコンで取材メモをとっています。ITリテラシーが高まる中、デジタル媒体で記録をとることが当たり前なことだと、痛感しています。
昭和世代の私は、どうにもこの傾向に馴染むことができていません。どうしても、手書きというアナログな方法で記録を取ってしまいます。(と言いつつも、ブログをwebで公開していますので、矛盾している部分は自覚していますが・・・。)
今日、ここ数年保管していた勉強会の記録ノートを見返しました。調べものをしていて、書架に保管していた記録ノートを手にしたのです。
記録ノートは5年前のものもありました。
幾度となく、「もう使わないから、捨てよう。」と思いつつも、捨てられなった記録ノート。
見返すと、気づくことがありました。
今日は、その気づきをお伝えしたいと思います。
よみがえる、当時のこと
記録ノートを手にしたきっかけは、「ジョハリの窓」のことを調べるためでした。
数年前に参加した勉強会で、「ジョハリの窓」をテーマにしたケーススタディーを学んだことを思い出したからです。
「確か、記録ノートのどこかにメモしたはず・・・。」という曖昧な記憶をたよりに、数冊の記録ノートを見返したのです。
しかし、記録ノートをパラパラの見返すと、「ジョハリの窓」ではなく、自分が手書きした当時のメモに目がいってしまいました。
(大掃除のときに、アルバムを引っ張り出すと、それを見ることに夢中になってしまうことが往々にしてありますよね。それと同じ状態です。)
当時のメモを読み返すと、「当時、何を考えてメモしていたか。」が鮮明によみがえってきました。
不思議に感じたことがあります。調べたかった「ジョハリの窓」とは関係のないテーマを読み返していても、アタマの片隅には「ジョハリの窓」があるせいか、無意識に関連づけているということです。
5~6冊のノートを読み返して、それぞれのノートに記録してある当時の記録メモは、「ジョハリの窓」ではないことばかりだったにもかかわらずです。
それはあたかも、計画的偶発性理論のごとく、当時の記録メモである点と点がつながり、現在探し求めていることについての解釈幅を広げるような感覚です。
記録を通して記憶が鮮明化する
まったく関係のないテーマに関する手書きの記録メモを通して、当時の記憶が鮮明化しました。
それを目にするまでは忘れていたことが、手書きメモを目にした瞬間、思い出したということです。
当時、なにを学んでいたか
なぜ、そのメモをとったのか
登壇者がどういう表情であったのか
そのときの自分の課題意識は何であったのか
自分の脳内で動きを止めていた記憶たちが、「ジョハリの窓」を調べたことをきっかけにして、再び動き出したという感覚を覚えました。
そして、結果として、保管していた記録ノートを見返す前は気づいていなかった発想を持つことができました。
「ジョハリの窓」について、複数の記録メモを通して、多角的に理解できるようになったのです。
まとめ
閲覧性という点で、アナログな記録方法はデジタルな記録方法よりも、アドバンテージがあると感じました。
複数の記録ノートを、同時に開いて、横並びにして読み返すことができるからです。
デジタルな記録方法でも同様のことができるかもしれませんが、アナログな記録方法の方が、読みやすいと、私は感じたのです。
さらに、手書きによるアナログな記録方法は、どこかノスタルジックな気持ちになるようにも感じました。
記録をとった当時を思い返し、「自分はなにを探っていたのか」ということに思いをはせると、「それなりにがんばっていたんだなぁ~。」と感じたからです。
したがって、私はこれからもアナログな記録方法である「手書き」メモを続けていこうと決意しました。
昭和、平成が終わり、令和になりましたが、アナログな記録方法を堅持していこうと思うのです。
本日も、お読みいただきありがとうございました。