自分の考えをまとめるために、最も適した時間帯はいつだろうか。
毎日を忙しく過ごしていると、時間をどのように消費したかが、生活の質に大きく影響するように思える。生活の質ということは、そのまま人生の質のように感じる。45歳を過ぎると、自分に残された、自分が自分のために自由に使える時間は少ないものだ。
平日、休日ともに、自分だけの時間を1時間確保することは、簡単ではない。
たとえば、休日の今、このブログを書いているときは、自分が自分のために自由に使える数少ない時間だ。しかし、その貴重な時間でも、自分の家族が近くにいると、完全に自由にならないことがよくある。
隣で無邪気に妻と娘が会話をしていたりすると、その会話がとてもうるさく感じたりする。そういうシチュエーションでは単純に集中できなくなる。
正直、「うるさいから、少し小さい声で話しろ!」と言いたくなる。
とは言え、そんなことをしようものなら、妻と娘のだんらんを壊すことになるし、なによりも自分の器の小ささを露呈するようなものだと感じてしまうから、決してそのようなことはしない。
結局、自分の集中力を鍛え上げるしか策がないようにも思えることがままあるが、よく考えると、自分が集中したいことに着手する時間帯の設定次第で解決できるようにも思えてきた。
私のなかで、一つの結論があり、それを再認識した。
やはり、自分の着想を深め、集中するには、朝の時間を活用することが最適だと。
経験的に朝の時間帯は、アタマがクリアな状態であることが多い。ゆえに、自分の思考を深めたり、広げたりすることに適していると思う。朝の時間帯のふとした瞬間に、今まで自分が得た情報がつながり始めて、思わぬひらめきがあり、自分の考えが固まったことがよくある。
一方、夜の時間帯は、一日を振り返るには適しているように感じる。今日一日に経験したこと、感じたことをまとめることで、思わぬ発見につながることがよくある。私の経験では、自分で得た情報を束ねて一つの法則性を見つけたり、自分の考えをブログにまとめたりしている。しかし、夜の時間帯はアタマが疲れていることが往々にしてある。
それゆえ、朝の時間を活用することが最適であると思うのだ。
理由は二つある。
第一に、邪魔が入らないことだ。家のなかで起きているのは自分だけだと、確実に自分の時間を確保できる。妻と娘のだんらんは、彼女たちが起きてこないかぎり展開されることはない。邪魔が入らないことに加えて、アタマがクリアが状態であることも相まって、発想力が豊かになる。
このことは、自分が自分のために自由に使える時間を確保するための必須条件だと、私は考える。
第二に、一日に使える時間が相対的に増えすことができる。一日のスタートが早い分、できることが増える。つまり、一日の時間を有効に活用できる可能性が広がるということだ。
もっとも、適切な睡眠時間を確保することを忘れてはならないと思う。
睡眠時間を削って早起きし、朝の時間帯を確保しても、昼間には睡魔に襲われて、結果的に時間を有効に活用できないことが往々にしてあるからだ。
ここまで書いてきて、あらためて思うことがある。
それは、「無意識に、なんとなく時間をタレ流していること」を意識的にやめる必要があるということだ。「無意識に、なんとなく時間をタレ流していること」の典型的な例は、なんとなくテレビやスマホを見ていたりすることだ。
このことに費やしている時間は、こま切れであったりするので、その時は「無駄な時間」とは思えないものだ。しかし、それが積もり積もると、大きなものになっていたりする。
自分が自分のために自由に使える時間を確保するには、「時間の価値」を重く受けとめることが大切なのだと思う。
自分に与えられた時間は、有限であることを人は皆知っているし、明日も同じように時間が与えられると思うものだ。しかし、これも確実に約束されたものではない。
「時間の価値」を重く受けとめることは、自分が自分のために自由に使える時間を大切に取り扱おうという気持ちにつながると思う。
その気持ちは、「心地よい時間をできるかぎり長く体感しよう」という気持ちではないだろうか。
そう考えると、自分が自分のために自由に使える時間を確保することは、自分のためだけではなく、自分とかかわりのある人たちとの接する時間も大切に取り扱おうという気持ちを持つことにもつながってくると感じる。
45歳を過ぎて、自分のキャリアを考えるとき、自分が自分のために自由に使える時間を確保することで、自分のみならず、他者とのかかわりも考えていくことが大切だ。
自分のキャリアは自分独りで創り上げられるものではないからだ。
今日お伝えした、朝の時間を活用することが、一つのヒントになるならば、私は嬉しい。